【庶民的出産録2】分娩誘発







36週1日で妊娠高血圧腎症を発症し緊急転院、緊急入院になった田熊。
その後1週間減塩食を食べ安静に過ごすも腎臓肝臓の数値の改善が見られなかったため、もう産んで妊娠状態を終わらせてしまおうという医師の判断がくだりました。
(妊娠高血圧症は妊娠が終わると治るのです。)
正期産(もう赤ちゃんが外に出る準備ができていつ産まれてもOKとされている期間)に入った37週0日より分娩誘発を開始。
誘発1日目。
小さいバルーンを子宮口に入れて1日過ごす。
特に身体に変化なし。
誘発2日目。
朝、バルーンを取り出す。
子宮口が3センチ開いていました。
痛みなど何もなし。
大きめのバルーンを子宮口に入れて1日過ごす。
特に変化なし。
誘発3日目。
朝、バルーンを取り出す。
子宮口が6センチ開いていました。
田熊、耳を疑う。
あらゆる出産エピソードを読み漁っていた田熊は
「陣痛が痛すぎてもういい加減産まれるだろうと思ったら子宮口3センチしか開いてなかった」
「陣痛が痛すぎていよいよと病院に行ったらまだだからと家に返された」
等、全然まだなのに凄く痛いという話は散々見ていたのですが、子宮口6センチ開いても全く痛くないというパターンは記憶になかったのです。
とりあえず先生によれば「いい感じ」とのことなので引き続き誘発を続けることに。
この日は陣痛誘発の薬を1時間に1錠飲むというものでした。
午前中のうちは何も感じず、もはや田熊の巣となった大部屋の片隅でダラダラと漫画を読み漁っていたのですが、昼食の時間あたりにお腹の内側からモリモリモリと外側へ押し出すような感覚がし始めました。
しかもモリモリなっている時にノンストレステストの機械のメモリがどうやら振り切れている!
なんだこれはと戸惑っていると助産師さんがやってきて、
「いい波来てますね!」
と声をかけられた後すぐに陣痛室へ移動となりました。
痛みゼロの田熊は「産むの?これから?」と半信半疑で出産セットを抱えて、それまで一度も入ったことのなかった「周産期センター」と書かれた扉の中へ歩いて行きました。
【庶民的出産録1】妊娠高血圧腎症






2024年7月末。
田熊は妊娠36週を迎えていました。
長い長い不妊治療期間を経て妊娠し、初期の切迫流産や食べづわり、どんどん大きくなるお腹を抱えながらの通勤、後期に突入してからの無茶な引越しなどを乗り越え、田熊は片田舎にある実家へ里帰りしていました。
おっくんとの慌ただしい二人暮らしから一転、実家では上げ膳据え膳、外は猛暑、身体が重いうえやることも特にないため、部屋にこもって大河ドラマ『光る君へ』をひたすら追い視聴し、疲れたら昼寝(ドラマ見るだけで疲れる)の生活を送ること3週間。
出産予定日までまだあと1カ月もあるので産まれてくる我が子の命名書でも作ろうかしらと思いたち材料を買い揃えた翌日に妊娠高血圧腎症の診断がおり、個人経営のクリニックから周産期医療センターのある総合病院へ緊急転院緊急入院となりました。
田熊は腎臓と肝臓と血圧の数値がおかしかったのですが、むくみや頭痛や目がチカチカする等の自覚症状はなく自分ではまったくわかりませんでした。
それでもだいぶよろしくない状態だったらしく、入院のための荷物を取りに帰ることも許されず即日入院となりました。
【最終話】卒業



2024年2月のなかば。
田熊は1週間前に受けた初回妊婦健診の結果を聞くためにいつもの不妊治療専門クリニックを訪れました。
妊娠11週を迎え、1月に3週間続いた謎の出血は止まったあと再開していませんでした。
塩先生からさまざまな検査の結果の紙を次々に渡され、
「全部問題なかったですよ」
と言われました。
次に塩先生は
「紹介状です。妊婦健診を受ける予定のクリニックに早めに持っていって受診してください」
と、封をした厚みのある封筒を田熊の前にズイと出しました。
紙と封筒をガサガサと受け取った田熊は一瞬考えたのち
「ここに来るのは今日で最後ですか?」
と聞きました。
すると塩先生は椅子ごと田熊の方を向き、
「そうです。卒業です」
と言いました。
初めてクリニックを訪れた日からちょうど3年が経っていました。
「長い間ありがとうございました」
田熊が頭を下げると、塩先生は
「いえいえ、とんでもない」
と言い、続けて
「妊娠できて良かったです」
とニコッと笑いました。
つられて田熊も
「はい、良かったです」
と笑うと塩先生は途端に真顔になり
「でもまだまだこれからですから、頑張って」
と言って送り出してくれました。
帰宅後、おっくんに話をしました。
「あの常に塩対応の先生が、ニコッて笑ったんだよ」
と少し面白おかしく話していると、
「あ、でもさ」
とおっくんは遮りました。
「くまちゃんもよく笑うようになったよ、妊娠してから」
「え、ウソ!」
とても驚きました。
不妊治療は、身体に負担になる処置が多くて、お金がかかって、仕事との両立が大変で、努力に比例して結果が得られるわけでもなくて、でもそれらは全部仕方のないことと割り切って、乗り越えているつもりでした。
20代で好きなことをしてきて、自分はメンタルが鍛えられている方だから大丈夫と思っていた節もありました。
世の中にはどうしても自分の思うように行かないこともあるものだと心得ているつもりでした。
だから笑うことが減っていたというおっくんからの指摘はまさに寝耳に水で、そのとき初めて不妊治療中だった自分の心を直視したのでした。
この時お腹にいた赤ちゃんは2024年8月に外の世界に出てきました。
産まれてからもうすぐ半年経つ今でも、自分の子どもが目の前にいる現実が時々信じられなくなります。
それくらい田熊は妊娠する可能性の低い、妊娠に向いていない身体だったのだと思います。
それでも投げ出さずに治療を続けてくれた塩先生と看護師さん、胚培養士さんへの感謝の気持ちが溢れてすごいです。
不妊治療はしなくて済むならしないに越したことはないのですが、一緒に乗り越えたことでおっくんとの団結力が高まったのは数少ない不妊治療をしていて良かったことのひとつです。
責任を持って大事に子どもを育てていきたいと思います。

【妊娠初期8】ワクワク

2024年2月。
産院予約を済ませ母子手帳を手に入れ妊娠10週を迎えた田熊はしかしまだ不妊治療クリニックへ通っていました。
その日は事前に1回目の妊婦健診をすると言われていたので、貰ったばかりの母子手帳をバッグに忍ばせました。
ダラダラ続いた出血は3週間経ったところでようやく完全におさまり、田熊は仕事復帰しました。
定時まで働いた後、バッグの持ち手につけていたマタニティマークをバッグの内ポケットにしまい、歩いてクリニックへ向かいました。
その日、田熊は通い慣れたいつもの道を歩いているのに、いつもより見える景色が鮮やかで、気分が凪いでいることに気づきました。
不妊治療の只中にいた3年の間、検査だったり筋肉注射だったり、受精確認だったり妊娠判定だったり、これから大変なことをするぞという異常な緊張感とストレスを常に抱えてその道を歩いていたのでしょう。
出血がありまだ初期だったため不安感は拭いきれませんでしたが、田熊は初めて自分の中に「エコー楽しみ」というプラスの気持ちを抱きながらクリニックへの道を歩いていたのでした。
長くて暗いトンネルの中にずっといた田熊に出口の明かりが見えてきていました。
【妊娠初期7】マタニティ


2024年1月下旬、妊娠9週の頃。
出血が始まってから2週間が経ち、長引く安静生活により田熊は自分が社会の一員であることを忘れかけていました。
その間出血量は増えたり減ったりを繰り返していましたが、3日ほど少しずつ減っていく日が続き、ついにナプキンに血がつかない朝が訪れました。
出血がおさまった安堵と共に、田熊は社会人としての義務を思い出しました。
母子手帳をもらいに行かなければならなかったのです。
クリニックから次回の来院までに母子手帳をもらっておくように言われていた(安静なのに?)田熊は出血が止まったその日おっくんの運転で、それまで存在を認識してもいなかった市の保健センターへ行きました。
申請書に住所電話番号名前を書いて提出したら母子手帳をもらってはいおしまいかと思って軽い気持ちで窓口を訪れた田熊とおっくんは
「はいはい、こちらね〜」
と事務所の奥の部屋に通され、何やら解答欄が大量にあるA3用紙を渡されすべての欄を埋めるよう指示を受けました。
最終月経日や不妊治療をしたか否か、産む予定の産院、仕事の状況、生活環境、実家の所在地など様々な個人情報から妊娠してからの精神安定度合いをはかるチェックリストまで、ありとあらゆる質問に答え終わる頃には20分が経過していました。
2週間ベッドで安静にしていた田熊には椅子に座って胴体を起こしている状態さえギリギリなほど体力が残っていませんでした。
用紙を書き終えてからは保健師さんとの面談。
記入した内容を隅々まで確認され、各種助成金やサービスの説明を受けました。
それらが終わるとやっと母子手帳と、妊娠線予防クリームの試供品やママパパ向けサービスのクーポンやチラシがごっそり入った手提げ袋を渡されました。
手提げ袋の中にはマタニティマークが入っていました。
駅や街中でつけている人を見かけては、あああの人は自分と次元の違うところにいるのだなと羨んでいたマーク。
自分がつけられる日が来たことがまだ半分信じられない気持ちでした。
あと、いざつけてみるとピンクでハートという乙女デザインが自分に似合わなさすぎて若干の羞恥心を胸に抱きながらぶら下げることとなりました。
【妊娠初期6】おめでとう


顕微授精で心拍確認まで辿り着いたあと、不妊治療クリニックから次の受診までにやっておくよう言われていたことがありました。
ひとつは母子手帳の受け取り。
もうひとつは産院の予約でした。
まだ完全に出血が止まらない状態で産院を予約しても良いものなのかと少し気が引けましたが、塩先生曰く今は早い週数で予約しなければ産院難民になってしまうこともあるらしく、できるだけ早く電話するようにと言われました。
田熊は里帰り出産希望していたので、実家の近くの産院に電話をかけました。
電話に出たおそらく受付の女性に心拍確認ができている妊婦であることを簡単に説明し、
「それで、そちらで里帰り出産をしたいのですが…」
と田熊が言うと電話口の女性から放たれた言葉が
「この度はおめでとうございます」
でした。
ふいの「おめでとうございます」に田熊は戸惑い、
「え、あ、は?はい」
と不審者のような受け答えをしました。
この時が妊娠後はじめて田熊が言われた「おめでとう」なのでした。
出血が続いていたので仕方がないのですが、田熊の中で自分の妊娠がずっと半信半疑なのでした。
その時までずっとおめでたいという認識がないまま過ごしていた自分は、赤ちゃんに失礼なのでは?
もっと赤ちゃんを信じるべきなのではないか、と思いました。
電話口の受付の方の明るい口調に少し戸惑いながら、8月のお産の予約を取りました。
ちなみに7月の予約はもう埋まっていたので本当に産院難民になるところでした。
【妊娠初期5】食べづわり


田熊の妊娠7週目は出血による自宅安静と同時に食べづわりの幕開けでした。
お腹が空くと気持ち悪いとはこれいかに、とそれまで想像できていませんでしたが実際に自身の身体に起こるとそれは事前に想像できるはずもない全くの新感覚なのでした。
お腹が空くと、という表現は少し異なっていて、常にお腹が空いていました。
その空腹感は非常に不快なもので、精神が胃の不快感に集中してしまい他のことが考えられなくなってしまうのでした。
発狂しそうな空腹感を解消しようと食べ物を口に入れるわけですが、食べ物ならなんでもいいというわけでもなく、田熊は野菜と肉・魚、甘いお菓子を全く食べたいと思わなくなりました。
パンとおにぎり、ゼリー、塩煎餅、たこ焼き、そしてなぜかモスバーガーが田熊の食事となりました。
(なぜかモスバーガーの肉は食べられる。謎)
空腹感を紛らわすため、昼間はおよそ1時間ごとに何か口にしました。
そのたびにベッドから移動するわけにもいかないので食べたいものはおっくんにリクエストして仕事帰りに買ってきてもらいベッド横に置いた紙袋に補充しておき、耐えられなくなると身体を起こしてベッドの上で食事をとりました。
夜中も空腹で目が覚めるので、枕元に置いてあるおっくん作の小さなおにぎりを目が覚めるたびに一つずつ暗闇の中で貪りました。
それまでの不妊治療期間でとってきた健康な食事から一転、田熊の食生活は時間も間隔も栄養もめちゃくちゃになりました。
田熊は不快な空腹感とひどい食事内容への罪悪感に苛まれながら、そのとき初めて自分の身体に何かが起こっていることを確信したのでした。