【最終話】卒業



2024年2月のなかば。
田熊は1週間前に受けた初回妊婦健診の結果を聞くためにいつもの不妊治療専門クリニックを訪れました。
妊娠11週を迎え、1月に3週間続いた謎の出血は止まったあと再開していませんでした。
塩先生からさまざまな検査の結果の紙を次々に渡され、
「全部問題なかったですよ」
と言われました。
次に塩先生は
「紹介状です。妊婦健診を受ける予定のクリニックに早めに持っていって受診してください」
と、封をした厚みのある封筒を田熊の前にズイと出しました。
紙と封筒をガサガサと受け取った田熊は一瞬考えたのち
「ここに来るのは今日で最後ですか?」
と聞きました。
すると塩先生は椅子ごと田熊の方を向き、
「そうです。卒業です」
と言いました。
初めてクリニックを訪れた日からちょうど3年が経っていました。
「長い間ありがとうございました」
田熊が頭を下げると、塩先生は
「いえいえ、とんでもない」
と言い、続けて
「妊娠できて良かったです」
とニコッと笑いました。
つられて田熊も
「はい、良かったです」
と笑うと塩先生は途端に真顔になり
「でもまだまだこれからですから、頑張って」
と言って送り出してくれました。
帰宅後、おっくんに話をしました。
「あの常に塩対応の先生が、ニコッて笑ったんだよ」
と少し面白おかしく話していると、
「あ、でもさ」
とおっくんは遮りました。
「くまちゃんもよく笑うようになったよ、妊娠してから」
「え、ウソ!」
とても驚きました。
不妊治療は、身体に負担になる処置が多くて、お金がかかって、仕事との両立が大変で、努力に比例して結果が得られるわけでもなくて、でもそれらは全部仕方のないことと割り切って、乗り越えているつもりでした。
20代で好きなことをしてきて、自分はメンタルが鍛えられている方だから大丈夫と思っていた節もありました。
世の中にはどうしても自分の思うように行かないこともあるものだと心得ているつもりでした。
だから笑うことが減っていたというおっくんからの指摘はまさに寝耳に水で、そのとき初めて不妊治療中だった自分の心を直視したのでした。
この時お腹にいた赤ちゃんは2024年8月に外の世界に出てきました。
産まれてからもうすぐ半年経つ今でも、自分の子どもが目の前にいる現実が時々信じられなくなります。
それくらい田熊は妊娠する可能性の低い、妊娠に向いていない身体だったのだと思います。
それでも投げ出さずに治療を続けてくれた塩先生と看護師さん、胚培養士さんへの感謝の気持ちが溢れてすごいです。
不妊治療はしなくて済むならしないに越したことはないのですが、一緒に乗り越えたことでおっくんとの団結力が高まったのは数少ない不妊治療をしていて良かったことのひとつです。
責任を持って大事に子どもを育てていきたいと思います。
